「中野のひと」インタビューVol.11~講談師 神田山緑

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更新日:2023年8月3日

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まちの歴史に「命を吹き込む」講談師

 現在、講談師として寄席からテレビ、ラジオなどで幅広く活躍し、中野区観光大使でもある神田山緑さん。

「生まれは人形町で、祖母は旅館を営み、うちの前には呉服屋さん、その隣は唄の師匠さん、三味線の音もあちこちから聞こえ、わりと文化的なものに囲まれていた幼少期でしたね。」

-講談もその頃に始めたのですか?

「いえいえ、講談は大人になるまで全く出会ったことのなかった世界で、学生時代は応援団やボクシングなどをやっていました。」

そんな神田さんが講談に出会ったのは27歳のとき。

「起業した会社で、次々と社員が辞めていき、気が付くと自分ひとりに。そんなある夏の日、不意に日本橋の看板に書かれた講談の文字に惹かれ、吸い寄せられるように寄席に入りました。その時生まれて初めて聞いた講談、神田すみれ師匠の『白隠禅師』は、冬のしんしんと降る雪の中、禅師が歩く光景が頭の中で広がり、気づいたら涙がボロボロこぼれていました。そのひとときは、悩んでいたことを全て忘れ、救われた感じがしました。」

言葉だけで世界を構築する講談の力に感動し、29歳で神田すみれ門下生に。

徐々に経験を積み、師匠の勧めで話す練習にもなるからと、はとバスガイドや散歩のガイドも始めた神田さん。

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「ガイドの仕事を始めてから、物語を通じてまちをPRしていく楽しさを知りました。講談は言葉の力だけでその場の情景を想像させながら、歴史を分かりやすく面白く語ります。なかなか知る機会のないまちの歴史を、ストーリーを入れて紹介していくことで、より多くの人に興味を持ってもらいたい。一人が語ることで何百人の人に知ってもらえるのも講談の強みなので、講談教室の活動を通して地域の語り部と、地域の物語をもっと増やしていきたいですね。」


神田さんにとって中野の魅力は?

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「一つは哲学堂公園です。小学4年生で沼袋に引っ越してきたとき、お化け屋敷みたいな哲学堂公園の面白さにワクワクしました。井上円了先生が哲学的精神修養の場として創ったこの公園はかなり奥深い空間。妖怪博士の異名をもつ円了先生は摩訶不思議なもののコレクターでもあり、ここには幽霊梅などいわくつきのものが色々と集められたんですよ。かつては松を切ろうとする天狗が現れて邪魔をしたといわれる天狗松なんかもあったそうで。知れば知るほど面白いスポットで、私にとっては立派なテーマパークですね。」

「あと、中野は人同士のつながりが強いと感じますね。下町のほうに住んでいた時期もあるんですけど、中野は多様な地域から集まっているのに、自然と輪ができ、中野のために活躍したいと思う人が集まる独特の風土がある気がします。中野への愛がある人たちに、語り方を学んでもらい、より中野で遊びたいと思う若い人も増えてほしい。」


今後の目標は?

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「中野は意外にも歴史的な人物や出来事が多くあるまち。新井白石や吉良上野介など有名な人物のお墓があり、江古田原合戦などの歴史的な出来事もありました。それらの中野の語れる素材を活かして、創作講談を作り、語り部を増やし、中野の素晴らしさを伝えていきたいですね。」


ここ数年、神田さんは夏に「怪談の夕べ」と題し、宇宙館で寄席を開いている。当日は、哲理門から宇宙館までの道に明かりがともされ、訪れる人だけでなく、妖怪たちも招待されているような幻想的な空間に。哲学堂公園から人々の暮らしまで、中野の魅力を知り尽くした神田さんによる一席は、まちの新たな一面を発見できる機会になるかもしれない。

まだまだ語り尽くせぬ中野のひとですが、丁度お時間となりました。

これにて読み終わりでございます。

中野のひと プロフィール

神田山緑

世界で数少ない講談師の一人。2018年に真打に昇進。500年続く伝統芸能【講談】を世界へ広めていく活動に取り組む。中野区観光大使としても活動し、大学講師やテレビ出演など幅広く活躍。

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このページは区民部 文化振興・多文化共生推進課が担当しています。

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