中野の戦災(「中野の戦災記録写真集」PDF版)

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更新日:2023年8月3日

中野の空襲

 中野の空襲被害は、昭和19年11月24日、鷺宮二丁目の子ども4人が流れ弾を受けて死亡したのに始まります。本格的に空襲に見舞われたのは12月27日、以来20年5月25日の山の手大空襲まで計7回の空襲を受け、区内の大半を焼失しました。 
 中野区の空襲被害の状況については、次のリンク先をご覧ください。

中野の空襲

学童疎開

 昭和19年になると戦局はますます悪化し、戦場となってしまった都市は、もはや子どもたちにとっては、安全な生活の場ではなくなりました。空襲の心配のない農村地帯に向けて子どもたちの集団大移動が始まったのは、昭和19年の晩夏でした。
 中野区では昭和19年8月初旬に区長と校長と後援会長(奉仕会長)が協議し、区南部の各国民学校は長野県へ、区北部の各国民学校は福島県へと割り当てました。
 中野区の学童疎開についての詳細は、次のリンク先をご覧ください。

学童疎開

中野の戦災記録写真集

 昭和59年に、中野区では区民の方に提供していただいた写真をもとに「戦災記録写真展」を開催しました。当時を如実に物語る写真展は区民の多くの方々の心をゆさぶり写真集出版の要望が出されました。
 二度と戦争を繰り返さないために、私達には戦争体験のない若い世代へ語り伝えていく義務があります。そのための一助として、昭和60年に「中野の戦災記録写真集」を刊行しました。
 写真集の内容は次のとおりです。
 なお、この写真集は電子書籍でもご覧いただけます。詳細は関連情報をご覧ください。
 また、学童疎開実施結果調べ(P72~73)については、本写真集発行後に新たに判明等している場合があります。最新の学童疎開実施結果調べについては、学童疎開のページをご覧ください。

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