「中野の暮らし」「中野の戦災」
ページID:145359083
更新日:2023年8月3日
過去に展示したパネル・実物資料
「中野の暮らし」「中野の戦災」
パネル画像 | 説明 |
---|---|
中野の戦火 | |
中野区内の空爆被害状況 | |
掘建て小屋を建てて防火訓練 | |
富士山が大きく見えた | |
一夜明けたら焼野原 | |
焼けてしまった東中野一丁目付近 | |
竹槍の訓練 (大和町八幡神社) | |
婦人会の活動 | |
食糧難のため庭でさつまいもを作った | |
警報がなるたびに防空壕へ | |
供出された金属の山 |
実物資料画像 | 説明 |
---|---|
警防団が資料した双眼鏡 空襲警報時、警防団(防護団と消防組が一緒になったもの)がこの双眼鏡で「B29」を見張っていた。 (上高田 原田義武氏より寄贈) | |
中野の空襲を受けた目覚まし時計 中野の空襲(昭和20年5月)の際、中野区本町2丁目(当時の朝日ヶ丘)で発見された。硝子が溶けて、針は12時近くを指したまま文字盤に溶けついている。 (作家 早乙女勝元氏より寄贈) | |
焼夷弾によって溶かされたガラス 昭和19年現在の中野区上高田5丁目に落ちた焼夷弾によるもので遠藤山遺跡より出土 | |
(画像:15KB) | アルミ製(左)と陶製(右)の水筒 鉄や銅などの金属製の家庭用品は兵器の生産に使われるために国にさしだされ、陶製やアルミ製のものが作られた。 |
罹災証明書 空襲によって焼けた証明。配給を受ける時、駅で切符を購入する時、銀行で手続きをする時等、この証明書が必要だった。この証明書があると、優先的に列車に乗せてもらえたりした。 (松が丘 伊藤氏・若宮 川瀬竹次郎氏より寄贈) | |
引揚証明書 エトロフから函館へ帰ってきたときの証明書 (若宮 川瀬竹次郎氏より寄贈) | |
衣料切符 統制の始まり(昭和13年)には国家総動員法が施行され、政府は議会の承認なしに、国民生活を統制できるようになった。戦争のために軍事物資の生産が優先され、食料品や生活用品などの製造・販売が切符制となり、国民の生活は大変苦しいものとなった。衣料を買う時は「衣料切符」がなければ買えなかった。 (東中野 栗田よね江氏より寄贈) | |
国債 昭和13年から国民貯蓄奨励運動が実施され、貯蓄の奨励が始まった。集められた資金は軍需会社への融資や国債の引き受けにあてられた。国債の売り出しは昭和12年11月から始まり昭和16年11月まで26回実施され、累計で約20億円に達した。町会に割当てが課され、区民に強制された。 (本町 御子柴いな子氏・沼袋 小野武氏より寄贈) |
関連情報
お問い合わせ
このページは企画部 企画課が担当しています。