東京大空襲
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更新日:2023年8月3日
過去に展示したパネル・実物資料
「東京大空襲」
パネル画像 | 説明 |
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東京大空襲とは | |
3月10日とは | |
(画像:70KB) | 中野区内の空襲被害状況1 |
(画像:69KB) | 中野区内の空襲被害状況2 |
(画像:97KB) | 太平洋戦争も末期に入ると、小学生たちは「小国民」と呼ばれ、軍国主義教育のもと、撃ちてし止まん、聖戦、神風が合言葉になった。 |
(画像:67KB) | 敵機近しということで、小学生たちの「学童疎開」が始まったのは、敗戦前年の9月。東京もいよいよあぶなくなってきたのだ。 |
隣り組の防空・防火訓練は、毎日のようにおこなわれたが、火たたきにむしろ、バケツリレーによる敢闘精神がたのみの綱だった。 | |
(画像:44KB) | 1945(昭和20)年になると、B29による東京爆撃は本格的になった。 1月27日昼、銀座、京橋、丸の内など都市部が炎上。遠方に日劇が見える。 |
(画像:49KB) | 燃えさかる銀座をあとに、幼な児の手を引いて数寄屋橋方面に避難する母子。さかんに黒煙を噴き上げているのは安田(富士)銀行だ。 |
(画像:43KB) | 罹災者の群れは、わずかばかりの荷物を手に、それぞれの縁故先をめざした。浅草の惨禍の朝は、寒風吹きすさぶ茫漠たる廃墟。 |
(画像:55KB) | 3月10日大空襲のあと、東京下町は一望見渡すかぎりの焦土と変貌した。 3月19日、浅草松屋デパート屋上より。 その1、隅田川、本所方面を望む。 |
(画像:49KB) | その2、手前に見える四角いビルは神谷バー、その右に地下鉄ビル、路上に軍用トラックが1、2台、人々はみな徒歩だ。 |
(画像:60KB) | その3、地下鉄ビルの右下に浅草郵便局舎が、さらにその右に列車のようにつらなる仲見世街。浅草観音は焼失してしまった。 |
(画像:41KB) | ボーイングB29「スーパーフォートレス」戦略爆撃機 |
(画像:71KB) | 焼夷弾空襲のすさまじさをまざまざと見せつける一面の焼け野原。残っているのは旧国技館や両国小学校など、鉄筋の建物だけだ。 |
(画像:123KB) | 果てしなき瓦礫の町の東京。開戦時約700万人の人口は、130回もの火の雨にさらされ、敗戦時には250万人に減少した。 |
(画像:48KB) | 東京都戦災焼失地図 |
実物資料画像 | 説明 |
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ゲートル すねの部分をまいて歩きやすくするもの 上高田 大川良夫氏より寄贈 | |
防衛食容器 戦時中の陶器製の缶詰容器。不足していた金属の代わりに作られ、中は真空状態になっており食品が入っていた。蓋の中央部にある窪みをクギなどでつついて穴を開け、空気を入れて開封する仕組みになっている。 大和町 井上和昭氏より寄贈 | |
被爆瓦 広島市南区在住 青木栄氏より寄贈 | |
被爆エノ木 1945(昭和20)年、長崎に投下された原子爆弾で被爆したエノ木の枝の一部。被爆した部分は熱線の影響により、樹皮が溶けてはがれおち、幹の中心付近は一直線に黒い線が入っている。 広島市在住 枝野譲氏より寄贈 | |
1トン爆弾の破片 広島本通り岸本メガネ店にあったもの 小樽ナツカ氏より寄贈 | |
広島の原爆で被爆したメガネ 広島本通り岸本メガネ店にあったもの 小樽ナツカ氏より寄贈 | |
奉公袋 出征兵士が軍隊に出向く時、軍隊手帳・召集令状・勲章・日用品など軍隊生活に必要なものを入れて持ち歩いていた袋 若宮 川瀬竹次郎氏より寄贈 | |
慰問袋 戦地で苦労している兵士をなぐさめるため慰問袋を作った。中身は靴下・チリ紙・手紙などであった。無事を祈って「千人針」を縫って入れたりもした。 新井 安江紀子氏より寄贈 |
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