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最終更新日 2014年11月28日
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なかの物語 其の七 良きか、悪きか、結果往来

良きか、悪きか、結果往来

明治維新以降、鉄道の敷設は文明開化の象徴でした。中野区には東京の幹線でもある中央線が通っています。明治22(1889)年4月11日に新宿-中野-境-国分寺-立川間に開通した中央線は当時甲武鉄道と呼ばれていましたが、その開設は迂余曲折を経たものでした。

明治39年頃の中野駅の写真
明治39年頃の中野駅

甲武鉄道の計画は、明治18(1885)年5月25日に5人の実業家によって東京府知事あてに願いが出されたことが始まりです。その理念は「国家豊饒は物産の振興と運輸の便を開くことであり、沿線住民の益にもなる」というものでした。

当時は、甲州街道と青梅街道の間を通って八王子まで開通させるという計画でした。これに対して、地域住民の反応は早く、8月には、角筈村・柏木村・幡ヶ谷村・中野村・本郷村・雑色村・和田村・永福寺村・和泉村といった現在の渋谷区北部・中野区と杉並区南部の村々から反対の意思が東京府知事あてに示されたのです。その理由は、耕地が分断される、農作物の成熟が妨げられる、民有地の買収は困難、ひいては甲州青梅街道沿いの村々の商業が失われ衰微することが憂慮されるというものでした。

実業家達は、影響のかからない村や、境界だけを通過するだけの村々などを示した上申書を提出するなどして調整を図りましたが、はかばかしい成果は出ませんでした。

明治20年頃になると、路線も青梅街道の北側、現大久保通りとの間を南北に通す新案が示されましたが、地域住民の意見は「鉄道は村を衰微せしむ」という内容に集約され、これも実現しませんでした。

とうとう、江戸時代以来の産業の中心であった甲州街道・青梅街道沿線をあきらめ、用水や畑が少なく森の多い現在の路線に決定されたのです。東中野-立川間が直線なのは、このとき、万策つきた担当者が地図の上に定規で線を引いたためという伝説もあります。

さて、住民の根強い反対の中で開通した甲武鉄道でしたが、中野停車場周辺は軍事施設が設置されたり、商店が増えたり、住宅化が進んだりと沿線は目覚ましい発展を遂げていったのです。

一方、文字どおり衰微の様相を呈してきた青梅街道筋では、路面鉄道の誘致が叫ばれ、大正10(1921)年8月26日に現在の西武鉄道の前身である西武軌道鉄道が淀橋-荻窪間に開通しました。これより少し前、甲州街道筋でも同様の動きが起こり、大正2(1913)年に笹塚-調布間に京王帝都鉄道が敷設されたのでした。当初住民の反対は実りましたが、後に鉄道の有益性が理解され大発展につながることが認識されたのは、良きか、悪きか、結果往来というべきでしょう。中野町誌(昭和9年刊)にはこう書かれています。「頑強に反対運動を起こしたるに依り(中略)今にして思へば笑止の沙汰なりと古老は語れり」と…

昭和7年頃西武軌道鉄道の写真
昭和7年頃 青梅街道・中野坂下(淀橋附近)を走る西武軌道鉄道(後の都電杉並線)

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