なかの物語 其の二 原始なかのは寒かった

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更新日:2023年8月3日

原始なかのは寒かった

松本清張の短編小説に「石の骨」という作品があります。原人の骨を発見した主人公が、閉鎖的な学会にその成果を否定されながらも、在野の研究者としての道を歩んでいくという物語です。

主人公のモデルとなったのは、松が丘一丁目に41年間居住されていた故直良信夫博士(1902~85)であることを御存じですか?明石原人骨の発見とその顛末は劇的なものがあり、博士の逝去後、現在でもその成否には決着がついていない状況です。このことは多く取り上げられていますので、ここでは博士のもう一つの研究成果について紹介します。それは「江古田植物化石層」の発見と研究です。結論から申し上げますと、わが国にも氷河期が存在したことをはじめて証明した土層なのです。昭和12年にこの土層が発見され

るまで、日本列島はユーラシア大陸の最東端に位置しており、太平洋に接していることから温暖な気候に恵まれ、世界を席巻していた氷河期とは無縁なものと考えられていました。

当時、お嬢さんが武蔵野寮園に入院されており、博士は松が丘から徒歩で毎日のようにお見舞いに通っていました。ちょうどその頃、現在の江古田一丁目の大橋から東橋のあたりで水道管の敷設工事が進んでおり、そこを通るたびに作業を見守り、土層の観察をつづけていました。ある日、博士は、地表から約2メートルの層から大量の針葉樹の植物化石があることを発見し、リヤカーいっぱいの土層を自宅に持ち込み丹念にそれを抽出しました。その結果、アオモリトドマツ・イラモミ・トウヒ・カラマツ・チョウセンゴヨウマツなど現在の東京では植生しない植物の化石を発見したのです。これらの針葉樹は、現在、富士山5合目や八ヶ岳の山頂付近などの高地でなければ見ることができません、このことから、当時、平均気温が約10度低く、冬が長く夏が短い気候であったことが証明されたのです。日本にも氷河期があったのです。

さて、その後も博士は付近を精力的に調査し、クルミやドングリなど現代と同じ植生の植物化石は縄文土器を伴うことも発見して、寒冷だった旧石器時代と温暖化した縄文時代の移り変わりを証明したのです。

ところでこのような植物化石が残されているのは、江古田地域に限られています。なぜなのでしょうか?

それは前回述べました、湧水に起因しています。台地の中の伏流水は常に循環して、清浄な清水となり湧き出ていました。この清水が細菌の繁殖などを抑え、腐敗することなく植物の遺体を残したのです。

博士は、ご自分でこれらの化石を標本箱に並べて、子供達にも見てもらえるように整理しました。歴史民俗資料館に展示してある標本箱がそれなのです。博士は中野をこよなく愛し、区教育委員会の小冊子につぎのように述べられています。「人間生活の心の支柱には、自分の住んでいる土地をこよなく愛するまごころなくてはなりません。」と・・・。

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