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最終更新日 2014年11月28日
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なかの物語 其の六 味噌・蕎麦・醤油・沢庵・製茶

味噌・蕎麦・醤油・沢庵・製茶

江戸時代、青梅街道は江戸五街道に次ぐ重要幹線道路でした。江戸城築城のために青梅に産出する石灰を運ぶ役割として開設されましたが、泰平の世になると、多摩地域の物資輸送路というライフラインに変わりました。中野宿は最後の宿場町にあたり、すべての物資の集荷地としてにぎわったのです。

豊かな原料はやがて地場産業を発展させます。大豆から味噌・醤油生産などの醸造業、麦・蕎麦からは製粉業が興りました。浅田醸造所・石森製粉、いまでも現役のあぶまた味噌などが有名でした。明治になって造られた浅田ビールは内国博覧会で一等賞を得ました。その後ビール醸造業は合併吸収が繰り返され最終的には麒麟麦酒の中に入りました。キリンの一滴は浅田の一滴でもあるのです。また、江戸の信州そばの中身は中野の蕎麦粉という話もあります。当時、信州の蕎麦粉は中仙道を辿りながら江戸に入ってきました。御存じのとおり中仙道には沢山の宿場があります。中継地点が多いほど運ばれる物資の価格は高くなります。一方、深大寺そばで有名な多摩地域でも蕎麦粉の生産が行われていました。ここでおわかりの通り、道筋が短く宿場の少ない青梅街道の蕎麦粉は安いのです。しかし、悔しいかな江戸っ子達は、中野(多摩)の蕎麦粉を使いながらも、信州・更科・戸隠などとブランド名をつけて多いに儲けたのでした。

青梅街道筋以外でも、江古田村の山﨑家は醤油醸造業をはじめています。江戸時代の紀行文に「少しのぼる所に、くろがねもて、たたみつくれるようなる、大きな蔵、三・四見ゆ、山﨑喜兵衛といふ醤油作りあきなふ者の家也けり」と記述され、繁栄ぶりが偲ばれます。この蔵はすでにありませんが跡地には区立歴史民俗資料館が建てられています。

中野北部では明治時代に入ってから大発展した地場産業があります。沢庵づくりと製茶です。中野北部では江戸時代から練馬大根の生産が盛んでした。実はその生産量はご本家練馬の2倍にも及んでいたのです。沢庵漬けが商品として飛躍的に発展したのは、日清・日露戦争から戦前の間です。わが国が海外に派兵するとともに軍による需要が急増したためです。そして、地域の主力産業として重要な位置を占めました。戦後も生産は続けられましたが、高度成長期を契機として衰退していきました。

製茶は、明治維新によって役割のなくなった広大な大名屋敷ではじまりました。その後、お茶は手間がかからずしかも輸出品として高価であるため、農家が製茶業に手をつけはじめたのです。主に、東京北部から埼玉南西部に広がりました。しかし、関東大震災後の急激な宅地化・都市化によって、つぎつぎと消えていきました。そして、現在でも残ったのが有名な狭山茶なのです。今や埼玉県では特産品として有名になっています。
 

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