なかの物語 其の三 いつから中野と呼ばれたのか?

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更新日:2023年8月3日

いつから中野と呼ばれたのか?

中野の地名の由来は、武蔵野台地の真ん中に位置しているためといわれていますが、はたしていつから「中野」と呼ばれていたのでしょうか?

中野区は武蔵国多摩郡に属していました。全国的な地名が載せられている最も古い記録である「延喜式」(967年完成)という書物には、多摩郡の中にさらに細かな地名としていくつかの郷名が記されていますが、その中の海田郷に該当するものと考えられています。まだ、中野という呼び名はありませんでした。

はじめて中野の名が登場するのは、和歌山県熊野那智大社に伝わる貞治元年(1362)の「武蔵国願文」という古文書が最古です。これには「中野郷」という地名が記され、中野郷に住む修験道の僧たちが熊野那智大社に参詣に赴いたことを示しています。残念ながら、海田郷から中野郷への呼び名の変化が967~1362年の間のどの時点なのかは不明です。

さて、つぎに文献記録に登場する地名は「江古田」です。文明9年(1477)、江戸城を築いたことで有名な太田道灌と石神井・練馬に本拠を置く武蔵野の豪族、豊島氏が衝突をしたのが「江古田原沼袋合戦」です。江古田地域に展開した戦いは熾烈を極めたといいます。ことの顛末を道灌自身が記した「道灌状」には江古田原という地名が明記されています。ところで江古田の地名の由来には二つの説があります。一つはエゴの木がたくさん生えていたからという説、もう一つは江古田の森のあたりに江古寺という寺院があったことによるというものです。平成15~16年の看護学校建設に伴う発掘調査で14~15世紀前半の寺院の跡が発見されていますので、後説が有力となっています。

また、室町時代末期に成立していたと考えられている「鎌倉大草紙」という軍記物の書物には道灌状とは記載が異なり「江古田原沼袋」と沼袋が追加されています。「沼袋」もこの頃からの地名であったのでしょう。この沼袋は妙正寺川の増水の後にあちこちに沼ができたことからついたものと考えられています。

新井薬師の写真
新井薬師の境内

この他に、古い地名(旧村名)はまだたくさんありますが、いずれも江戸時代以降の記録によるものです。その中から由来が言い伝えられているものを紹介しましょう。村内のお宮の森に鷺が住んでいたことからついた「鷺宮」、片方からみると切り立った山に見えることからついた「片山」(松が丘二丁目)、戦国時代に井戸が掘られ、そこから村が発展した「新井」(この井戸は今も新井薬師境内に名水として残されています)、中野郷最初の開拓地といわれる「本郷」(本町一~五丁目)、杉並の大宮八幡に務める人々(雑色)が住んでいたか、もしくはその所有地があったことからついた「雑色」(弥生町と南台)などがあります。

さらに、小さな地名(字名)も由来が辿れるものも少なくありませんが、今はもう使われていません。機会を改めて紹介いたしましょう。地名も人びとの生きた証です、皆様もお住まいの周りに関心を持たれてみてはいかがですか。

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