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最終更新日 2014年11月20日
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なかの物語 其の一 海から陸へ、そして川ができた

海から陸へ、そして川ができた

中野区には、北側に妙正寺川、中央線の南側に桃園川、南側に神田川が流れています。川の間は平坦な台地が続き、川のところは谷になります。どのようにして、このような地形が形成されたのでしょうか。

今から約7~10万年前の東京は、西は青梅、南は現在の多摩川の辺りまで一面が海でした。その後、世界的な大氷河期が訪れて、海面が後退していき、12000年前頃、現在の形になったと考えられています。この動きとほぼ同じ時代、関東周辺では富士山・箱根山が盛んに噴火を続けて、大量の火山弾や灰を噴き出していました。噴煙は偏西風に乗って東側に流れて、細かな火山灰(関東ローム層)がはらはらと降下していました。この噴火は、約12000年前まで数万年間続いていました。1週間1か月の単位ではありません、毎日毎日火山灰は降下を続けていますので少しずつ積っていき、そして現在のように台地が出来上がったのです。一方、青梅方面から流れてきた多摩川の水は、火山灰によって埋められていきますが、主な水流は密度の荒い部分を選んで、現在の多摩川の流路となります。しかし、一部の水流は火山灰の中をさまよい伏流水となり、目で見ることはできませんが台地の地下を毛細血管のように流れているのです。

これと雨水が浸み込んで溜まった水(宙水)が、地上に顔を出したのが湧水となります。武蔵野の三大池といわれる石神井池・善福寺池・井の頭池はまさに湧水の代表的なものといえましょう。

これらの池から流れ出た石神井川・善福寺川・神田川あるいは妙正寺川は、台地を削り、東方向へと流れて行き、平地と谷が織なす現在の武蔵野台地が出来上がったのです。

東京が東西の交通が容易で南北の交通が弱いのも、南北方向は川の谷をいくつも越えなければ進めないという武蔵野台地の特性に起因しているのです。また、坂の街東京と呼ばれる由縁でもあるのです。

では、この頃の中野区域に人はいたのでしょうか。歴史では約12000年前までは旧石器時代にあたります。人々は火山灰(関東ローム層)がはらはらと降下する過酷な自然環境の中で暮らしていました。このような状況ですので食料資源も乏しく煮て食するものもほとんどありませんでした。そのため煮る道具である土器は発明されず石器を主な道具として用いていました。

さて、中野最古の住民はと問えば、今のところ、富士見台遺跡(都立富士高校地)で地表面から約3mの深さで発見された約32,000年前の石器を使った人になります。その他に江古田遺跡(江古田の森)・新井三丁目遺跡(都下水道局敷地)・広町遺跡(弥生町6-2)で旧石器時代の遺物が発見されています。

厳しい環境の中、私たちの先人達の苦労はいかばかりかと思いをはせても、現代人の想像をはるかに越えるものがあります。旧石器人たちに敬礼。

石でできたやじり
中野で発掘した石で作ったやじり

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