なかの物語 第八話 現代に伝わる幕末の記憶

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更新日:2023年8月3日

現代に伝わる幕末の記憶

昔、明治は遠くになりにけりといったそうですが、若い?私にとっては昭和は遠くになりにけりです。ところで江戸時代といったらどうでしょう。もはや遠くどころか教科書の世界ですね。中野区教育委員会では昭和59(1984)年にお年寄りから様々な昔の話の聞き取り調査を行っています。その中でお話を伺った方の祖父・祖母の方が江戸時代のことを語られている話があります。もはや得ることのできない貴重な話ですのでご紹介いたしましょう。

安政の大地震(明治37年生まれの男性が父と祖父から聞いた話)

「井戸がね、昔は、木のね、四角の枠がこうなって、あれがね、3尺動いたっていうの。安政大地震は。あれからこっちに動いちゃってるんですって。そこへくるとまだね、こないだの大正12年の震災は、そんなほどではない。」という話です。あの関東大震災が安政の大地震に比べたら大したことないというのは、まさに実体験者でなければとても比較できるものではない話です。

桜田門外の変と甘酒屋(明治36年生まれの男性が祖母から聞いた話)

「17歳までの間は、祖母は旗本のお屋敷にね、行儀見習いのためにね、ご奉公にあがっているときに、万延元年のですね、3月3日に井伊掃部頭が、外桜田門において首を斬られたのです。わたくしの祖母が見たのでは、あの前ではね、毎日ね、甘酒屋さんが門の外に出ていた。それで、あの事件があってから甘酒屋さんはもう出なくなりましたって。だからたぶん、あの甘酒屋が、甘酒の釜の中に首を入れていったんじゃないかと。」という話です。井伊直弼の首は数日間行方不明になっていた事実があり、このことからいなくなった甘酒屋が加担していたと噂されていた臨場感あふれる話です。甘酒屋は単に恐ろしいから店を出さなくなったのでしょう。

近藤勇からもらった下駄(明治39年生まれの男性が祖父から聞いた話)

成願寺の写真
近藤勇の妻子が滞在した成願寺(本堂)

「わたしのおじいさんなんですがね、安政とかなんとかいって古いうまれなんですよね。だからね十いくつでね。近藤勇がね、あすこ板橋駅、すぐ左の方でね、斬られたんだよ、見てて。わたしの家がね侍だったもんだから、子どもだからちっちゃな刀差していたのね、そしたら『小僧、こっちへこい』と呼ばれて、下駄をもらってきちゃったの。近藤勇から。こんなでかい下駄でね。知り合いのじいさんがね、その下駄ほしくてしょうがないの。それでとうとうもらっていっちゃった。」という話です。新撰組隊長近藤勇は板橋で斬首されましたが、まさにそれを見物していた人の話です。この当時、近藤の妻子は中野本町の成願寺に滞在しており、ここから遺骸を引き取りに出かけたということです。

これらの話は、記録保存をしておいたからこそ、21世紀に話題にすることができました。しかし、何でもかんでも記録するというのは難しく、歴史のほとんどは、個人それぞれの記憶の中でしか生きていけないものなのかもしれませんね。


中野の昔話・伝説・世間話の表紙画像

今回紹介したお話が収録されている「中野の昔話・伝説・世間話」(全2巻、区教育委員会編)。4階広報分野、歴史民俗資料館で販売中(1冊1250円)

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