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最終更新日 2014年11月27日
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なかの物語 其の五 徳川将軍家と中野

徳川将軍家と中野

江戸時代、中野は、江戸に近い直轄支配地として、また、鷹狩りの指定地としても重きを成していました。そのため、徳川将軍家との関わりも少なからずあったのです。中野と将軍家との関係は3代家光の頃から記録に出てきます。「徳川實記」によると家光は、寛永17(1640)年1月25日から正保4(1647)年10月26日までの7年間に尾張徳川・紀伊徳川家をはじめ重臣達を伴い29回も中野に鷹狩りに訪れています。年4回平均です。

お囲いの位置図
お囲いの位置図(出典「なかの史跡ガイド」)

5代綱吉の頃は、ご存じのとおり「生類憐みの令」が出され鷹狩りは行われなくなりました。そして中野にはお犬様を養育するためのお囲い(犬小屋)が設けられたのです。お囲いは始めに現在のゼロホールの辺りにつくられましたが、足りなくなり、現在のサンモールのあたりに二の囲が増築されました。さらに区役所と警察大学校跡地に三の囲、さらに警察大学校跡地と環状七号線あたりまでに四の囲、そして今度は南側中野三丁目全域に五の囲と増築を続けたところで、綱吉は死去し、直ちに廃止されました。面積は約30万坪(約100ha)にも及び数万から30万頭の犬が養育されていたといわれています。1年間の総経費は98,000両といわれ、現代の価格ではおおよそ122億5000万円前後といったところでしょうか。その一方、当事者の綱吉が中野にきたという記録はありません。

ドラマ「暴れん坊将軍」で有名な8代吉宗は、ふたたび鷹狩りを復活。享保13(1728)年2月12日から寛保3(1743)年3月22日までに11回中野を訪れています。さて、いつのときの鷹狩りかは不明ですが、吉宗は大変気に入った場所があり、そこに桃を植えさせよと命じました。それが現在の中野三丁目一帯にあった「桃園」のことです。やがて桃は咲き満ちて、延享の頃(1744~48)には春の美観が広く江戸の人びとに知られるようになりました。吉宗自身も何回か訪れたといわれています。古い絵図には二つの築山が描かれ、一つが「御腰掛の場」又は「お立ち場」、もう一つが「御馳走山」又は「大名山」と書かれています。お供の大名を連れて、築山に立ち、花見をする吉宗の姿がほうふつとします。一説に花見のルーツはここからという話もあります。

その後の将軍たちも鷹狩りで中野を訪れています。10代家治(12回)、11代家斉(8回)、12代家慶(1回)、13代家定(1回)と記録されています。鷹狩りで将軍の立たれる「お立ち場」も桃園ばかりでなく、東中野の「中山のお立ち場」、上高田の「お立ち場」が知られています。また、休憩する場所「御膳所」は宝仙寺や江古田の東福寺が指定されていました。

区役所前にあるお囲いの犬の像の写真
区役所前にあるお囲いの犬の像

ところで、お囲いの犬は、その後どうなったのでしょうか。結局地域の住民に預けられて、彼らが最後まで面倒を見ることになりました。数が多かったので、預け先は所沢や厚木あたりの人々にまで及んだといいます。動物愛護もここまでくると、スケールが大きすぎて可か不可か、なんともはやコメントできません。

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