•  
  • メール
最終更新日 2018年4月1日
ページID 025374印刷

東京大空襲

過去に展示したパネル・実物資料

「東京大空襲」

パネル画像 説明
東京大空襲とは

東京大空襲とは

3月10日とは

3月10日とは

区内の被害状況1 中野区内の空襲被害状況1
区内の被害状況2 中野区内の空襲被害状況2
東京大空襲1 太平洋戦争も末期に入ると、小学生たちは「小国民」と呼ばれ、軍国主義教育のもと、撃ちてし止まん、聖戦、神風が合言葉になった。
東京大空襲2 敵機近しということで、小学生たちの「学童疎開」が始まったのは、敗戦前年の9月。東京もいよいよあぶなくなってきたのだ。

 東京大空襲3

隣り組の防空・防火訓練は、毎日のようにおこなわれたが、火たたきにむしろ、バケツリレーによる敢闘精神がたのみの綱だった。

東京大空襲5

1945(昭和20)年になると、B29による東京爆撃は本格的になった。

1月27日昼、銀座、京橋、丸の内など都市部が炎上。遠方に日劇が見える。

東京大空襲6

燃えさかる銀座をあとに、幼な児の手を引いて数寄屋橋方面に避難する母子。さかんに黒煙を噴き上げているのは安田(富士)銀行だ。

東京大空襲7

罹災者の群れは、わずかばかりの荷物を手に、それぞれの縁故先をめざした。浅草の惨禍の朝は、寒風吹きすさぶ茫漠たる廃墟。

東京大空襲8

3月10日大空襲のあと、東京下町は一望見渡すかぎりの焦土と変貌した。

3月19日、浅草松屋デパート屋上より。

その1、隅田川、本所方面を望む。

東京大空襲9

その2、手前に見える四角いビルは神谷バー、その右に地下鉄ビル、路上に軍用トラックが1、2台、人々はみな徒歩だ。

東京大空襲10

その3、地下鉄ビルの右下に浅草郵便局舎が、さらにその右に列車のようにつらなる仲見世街。浅草観音は焼失してしまった。

東京大空襲11

ボーイングB29「スーパーフォートレス」戦略爆撃機

東京大空襲12

焼夷弾空襲のすさまじさをまざまざと見せつける一面の焼け野原。残っているのは旧国技館や両国小学校など、鉄筋の建物だけだ。

東京大空襲13

果てしなき瓦礫の町の東京。開戦時約700万人の人口は、130回もの火の雨にさらされ、敗戦時には250万人に減少した。

東京大空襲14 東京都戦災焼失地図
実物資料画像 説明
ゲートル

ゲートル

すねの部分をまいて歩きやすくするもの

上高田 大川良夫氏より寄贈

防衛食容器

防衛食容器

戦時中の陶器製の缶詰容器。不足していた金属の代わりに作られ、中は真空状態になっており食品が入っていた。蓋の中央部にある窪みをクギなどでつついて穴を開け、空気を入れて開封する仕組みになっている。

大和町 井上和昭氏より寄贈

被爆瓦

被爆瓦

広島市南区在住 青木栄氏より寄贈

被爆エノ木

被爆エノ木

1945(昭和20)年、長崎に投下された原子爆弾で被爆したエノ木の枝の一部。被爆した部分は熱線の影響により、樹皮が溶けてはがれおち、幹の中心付近は一直線に黒い線が入っている。

広島市在住 枝野譲氏より寄贈

ノトン爆弾の破片

ノトン爆弾の破片

広島本通り岸本メガネ店にあったもの

小樽ナツカ氏より寄贈

広島の原爆で被爆したメガネ

広島の原爆で被爆したメガネ

広島本通り岸本メガネ店にあったもの

小樽ナツカ氏より寄贈

奉公袋

奉公袋

出征兵士が軍隊に出向く時、軍隊手帳・召集令状・勲章・日用品など軍隊生活に必要なものを入れて持ち歩いていた袋

若宮 川瀬竹次郎氏より寄贈

慰問袋

慰問袋

戦地で苦労している兵士をなぐさめるため慰問袋を作った。中身は靴下・チリ紙・手紙などであった。無事を祈って「千人針」を縫って入れたりもした。

新井 安江紀子氏より寄贈

 

このページについてのお問い合わせ先

政策室 企画分野 平和・国際化担当

区役所4階8番窓口

電話番号 03-3228-8987
ファクス番号 03-3228-5476
メールフォーム
受付時間 月曜日から金曜日までの午前8時半から午後5時まで(祝休日、年末年始を除く)

このページを評価する

ウェブサイトの品質向上のため、このページについてのご意見・ご感想をお寄せください。
より詳しくご意見・ご感想をいただける場合は、お問い合わせ・ご意見フォームからお送りください。

簡易アンケート