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かつて、日本は太平洋に面しており、世界的に展開していた氷河期とは無関係と考えられていました。
しかし、昭和11年に区内江古田地域で発見された「江古田植物化石層」によって、それは間違いであることが証明されたのです。
発見者は、当時新井薬師に住んでいた直良信夫博士。その内容は、深い土層には針葉樹林の植物化石が含まれており、浅い土層にはクルミなど現在と同じ植物化石と、縄文土器が含まれていたのです。これによって縄文時代以前の旧石器時代は今より平均7〜10度ほど気温が低く、現在の富士山の五合目と同じ気候であったことがわかったのです。
日本にも氷河期があったのです。
土器はもちろん、漆(うるし)塗りの椀や木製のイヤリング、暖炉の前で編み物も?
これらは北江古田遺跡で見つかった縄文時代の出土品。現代の技術と大差のない塗り椀や、網代編みの敷物が見つかっているというのだから驚きます。
区内には妙正川を中心に、縄文時代の遺跡が分布。片山遺跡や新井三丁目遺跡では縄文時代早期の集落、平和の森公園遺跡、新井三丁目遺跡では中期の集落跡が調査されていて、北江古田遺跡では、中・後期の生活跡が発見されています。
稲作農耕がひろがった弥生時代。首長を指導者とした水田耕作が共同作業で行われていたため、必然的に農耕を営む集落「ムラ」が大きくなっていったといわれています。
区内では竪穴式住居が見つかった平和の森公園北遺跡をはじめ、新井三丁目(中野刑務所付近)遺跡では、300軒を超える都内最大級の大集落が見つかっています。また長野や静岡地域の土器が区内から出土していることから、地域間の交流も活発に行われていったと思われます。
稲作農耕が根付く中、古墳時代には米の調理方法も発展。5世紀の後半頃には、より熱効率のよいかまどが登場し、それまでは煮て食べていた米を、現在の「おこわ」さながら、蒸して食べるようになりました。
土器も素焼き(土師器・はじき)に加え、硬質の須恵器(すえき)が大陸から伝わるなどバラエティに富み、食器も現在のようにひとりひとりに取り分ける銘々皿が登場しています。
中野神明小学校庭遺跡、向田遺跡、平和の森公園北遺跡、新井三丁目遺跡などからは、そんな暮らしぶりがうかがえる6〜7世紀の集落跡が発見されています。
7世紀の中頃に、現在の埼玉県、東京都、川崎市、横浜市の広大なエリアが合わさって「武蔵国」が誕生しました。
当時、中野地域は多摩郡小島(おじま)郷・海田(あまだ)郷と呼ばれ、武蔵野国府(府中市)から下総国府(市川市)を結ぶ道が中野の北部(現在の新青梅街道周辺)を東西に横切っていました。
区内からこの頃の遺跡がみつからないのは、律令(りつりょう)国家のスタートにより、点在していた中野周辺の村々が水田の豊富な土地に移動し、一時的に人口が減少したためではないかと考えられています。
平安時代の終わり頃、地方に土着した中央貴族や役人により“武蔵七党(むさししちとう)”“坂東八平氏(ばんどうはちへいし)”といった武士団が成長。
鎌倉時代から室町時代にかけては、坂東八平氏の系統である“江戸氏”が江戸城、“豊島氏”が石神井(しゃくじい)城・練馬城を拠点に武蔵野の開発に注力していたといわれています。
また江戸氏の一族の中に、“中野氏”“阿佐ヶ谷氏”という武士団があったという記録と、14世紀の後半には“中野郷”という地名があったという記録が残っており、この中野郷から、のちの中野村の基礎が出来上がっていたと考えられています。
室町時代後半、衰退した江戸氏にかわって活躍したのが、江戸城を築城したことで知られる太田道灌(おおたどうかん)。実は関東地方で30数回にもおよぶ戦をおこなって勢力を伸ばしてきた武将でもあります。1477年に太田道灌が豊島氏を攻撃し、現在の哲学堂公園から野方6丁目の新青梅街道沿いの一帯で、豊島氏の本拠地である石神井城・練馬城からの軍を迎え撃ったのが、中野を舞台にした激戦「江古田原沼袋合戦」。この戦いで豊島氏の支配力が急速に衰え、太田道灌は武蔵野における覇権(はけん)を手にしました。現在区立江古田公園の中に「江古田沼袋合戦古戦場の碑」があります。
太田道灌の死後、中野氏は北条氏の傘下に入り、その小代官である堀江兵部が中野郷を支配しました。堀江氏は1555年に備前あるいは越前から百姓18人を連れて中野に移り住んだといわれています。
北条氏滅亡後も豊臣秀吉の支配、徳川家康の江戸開幕など激動の時代を生き抜き、江戸時代には中野村名主として指導的立場を維持。堀江家が果たした業績によって中野は次第に発展したと讃えられるほどになりました。
堀江氏は中野村名主のほか将軍鷹場の村々への御用触次として74ヶ村を統括し、青梅街道中野宿の問屋場役人、組合村寄場役人、江戸城内への種物、なすの苗の上納などさまざまな分野で活躍。明治以降も町村政のために果たした業績は大きく、現在の中野区の発展の礎を築きました。
豊臣秀吉によって北条氏が滅亡し、徳川家康に関東が与えられたことにより、中野の村落も徳川家康の支配下に。
家康は江戸城の修築に着手し、その白壁などに使用するための石灰を青梅から運ぶために青梅街道がつくられました。
その後中野は青梅街道沿いを中心に発展していったのです。
江戸時代の中野には本郷・中野・雑色・上高田・片山・江古田・上鷺之宮・下鷺之宮・下沼袋・上沼袋・新井の11村に分かれていました。現在の中野が15地域に分けられているのに似ていますね。
中野のような江戸周辺の村々は、“御蔵入地(おくらいりち)” という江戸城に年貢を納める村であり、江戸幕府の直轄地でした。
動物好きで知られた5代将軍綱吉は「生類憐みの令」を出し、特に犬の保護は徹底されていたことは有名。江戸の野良犬を収容するため、現在の中野区役所付近の広大な土地を収用し「御囲(おかこい)」(通称犬屋敷)を建設。数百棟の犬小屋、飼場、日除場、子犬養育場があり、多くの役人や医者が常駐していました。
8代将軍吉宗に、ベトナムから象が献上され、長崎に2頭到着。そのうち1頭は死んでしまったものの、残る1頭は長崎を出発し、大阪〜京都を経て、東海道を通り2ヶ月かけて江戸へやってきました。
この出来事は日本に一大象ブームを巻き起こし、象関係の書物や玩具・調度品がさかんにつくられたと言われています。
この象は、中野村の百姓源助に下げ渡され、現在の本町二丁目の朝日が丘公園あたりに「象厩(象小屋)」が作られそこで飼育されていました。
8代将軍吉宗は現在のJR中野駅南西の地に桃の木50株を植えさせ、自らもたびたび訪れていました。さらにその周辺に11軒の茶屋の建設を許可。庶民にも解放され、見頃を迎える季節には大勢の人でにぎわったといいます。また、同じ頃に王子の飛鳥山、浅草の墨田堤、品川の御殿山、小金井などに桜を植えさせ、現在でも都内有数の桜の名所となっています。
中野の桃園は残念ながら江戸時代の末期には枯れてしまい、その後は商店や住宅が立ち並び、今では桃園の名は施設や橋の名前で残るのみとなってしまいました。
青梅街道は中野地域の南部を通る、江戸と武蔵野西部を結ぶ基幹道路。中野村は公用物資輸送の中継所として、発展していきました。そのためさまざまな商売がさかんに行われ、街道の両側には数々の商店が軒を連ねたといいます。大工、畳、草屋根、桶、篭作り、農具鍛冶などの職人も多数おり、中にはきのこや柿を露店で販売する光景も見られました。
農業をおもに営んできた中野村でしたが、江戸時代に入り徐々に商いが発展。1799年には、324軒の農家がありましたが、このうち199軒が農業のかたわら商売をしていたという記録が残っています。
青梅街道は江戸近郊への神社・仏閣参詣や遊山の道でもあり、江戸時代中期頃から現代の旅行ガイドブックさながら、青梅街道の案内書や紀行文が出版され、近郊の寺院や名所が詳細に紹介されるようになりました。
中野地域の当時の主な観光スポットは、本郷村成願寺、中野村宝仙寺と三重塔、新井村梅照院、上高田村氷川神社、上鷺宮村福蔵院などで、さらに近郊の堀ノ内妙正寺や御嶽山、桜の季節には小金井なども人気があったそうです。
中野村は江戸日本橋から約10キロという、格好の休憩地。街道筋には現代のカフェさながら茶店が点在し、賑わっていました。青梅街道から妙法寺への分岐点には鍋屋横町の名前の由来となった茶屋「鍋屋」があったことはよく知られています。
中野の農業は水田による稲作よりも畑作の方が盛んでした。南部ではナスが有名で、北部の沼袋・江古田地域では養蚕やお茶の栽培などが行われていましたが、なかでも大根の収穫量は群を抜き、これを加工した「たくあん」は、なんと東京西部の生産量のうち約4割を占めていたといいます。
武家屋敷跡地利用のためお茶栽培が奨励されたことから、武蔵野農民も茶畑をつくるようになりました。
江古田地域では、明治7年(1874年)頃から茶畑をつくり、宇治の茶師を招いて製茶法を学ぶなどして、村内の有力農民のほとんどが製茶業を兼業していたといいます。
しかし、大正から昭和にかけて宅地化が進むと、中野の製茶業は姿を消していき、武蔵野で現在も残っているのは所沢の狭山茶だけになりました。
明治時代は青梅街道筋を中心に、蕎麦製粉業や醸造業が地場産業として栄えたといいます。本格的な産業となっていた製粉業の資本を基礎として、醤油・味噌などの醸造業やビール製造が発展。味噌は、区内本町にある「あぶまた味噌」が今もその伝統を伝えています。
明治元年、江戸が東京と改められ東京府が設置。中野地域は北部が野方村、南部が中野村となりました。
中野村は明治30年(1897年)に中野町となり、宝仙寺境内に中野町役場がおかれ、昭和11年に中野区役所ができるまで使われていました。
一方、野方村は農村風景を多く残していましたが、大正12年(1923年)の関東大震災前後から急激に人口が増加し、住宅地化が進み、翌13年に野方町となりました。
そして昭和7年(1932年)、中野と野方が合併して中野区が誕生したのです。
明治22年(1889年)に現在のJR中央線の前身である甲武鉄道が、新宿〜立川間に開通し、それにともない中野駅が誕生。
東京市内へ通勤・通学する人や、新井薬師、哲学堂、堀之内妙正寺などへの参詣、行楽客などで駅は賑わいをみせたといいます。
また、駅の周辺には商店や住宅が建てられ、東京市内から移り住む人も増えていきました。
甲武鉄道は当初、江戸時代から発展していた青梅街道を走る計画だったとか。しかし、沿線の人々の猛烈な反対にあい、現在のルートに変更されることに。当時の中野駅は現在の位置より100メートルほど高円寺よりにあり、出口も桃園通りに面した南口だけ。周辺は一面雑木林と野原が広がり、小川が流れるのどかな土地だったそうで、現在の景観からは想像もできません。
東京市内の人口増加に伴い、市内にある官公庁や軍事施設、学校や寺院などの広大な敷地を必要とする施設・建物を郊外に移転させる新たな都市計画が実施されました。
中野は東京市に隣接していながら、良好な自然環境が残っていたことから、明治40年(1907)頃から大正12年の関東大震災の頃にかけて多くの施設が移って来ており、なかでも上高田地域には寺院の移転が集中し、寺町を形成しています。
中野には7カ所の寺子屋(私塾)が存在していましたが、明治8年(1875年)公立学校第1号である桃園学校が創設されました。
さらに明治15年までに3校が開校し、寺子屋も次第に公立学校へ吸収されていったといいます。
明治時代後期になると、区内の人口増加に伴う児童の急増に対応すべく、大正10年(1921年)から新たな公立学校が新設されはじめ、中野区が誕生する昭和7年までに9校を開校、昭和15年に公立学校の数は20校にもおよびました。
昭和6年の満州事変にはじまり昭和20年まで、15年間にもおよぶ戦争は中野の地にも様々な影響をおよぼしました。昭和20年までに区内南部の大半と北部の新井・上高田地域が空襲のために消失し、家屋はもちろん宝仙寺三重塔をはじめとした貴重な文化財も消失しました。
戦後は商工業の発展により、中野の街並は住宅地化が進み、学生や勤労者たちの住むアパートや下宿が多く建ち並びました。こうして、今もなお続く、都心に近接する商業住宅地という中野の特徴が生み出されたのです。
JR中野駅は、かつては北側に広大な軍事施設がつくられたため、もともと南口しかありませんでした。桃園通りを駅前通りとする位置でしたが、関東大震災以来の急激な人口増加のため、乗降客が急増し、北側に敷地のとれる現在の位置に、昭和4年に移転しました。
実はこの移転にともなって、南北の交通がスムーズになるよう、踏切を設けないで、線路の下に中野通りをくぐらせることに。そのため中野駅周辺は4メートルほど掘られ、土地を低くしたのです。これが現在の中野通りのガードとなって残っています。
南口は東西約130m、南北約150m、大久保通りまでが掘り下げられました。これに合わせて北口も掘り下げ、現在の形となったのです。
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