

最近、野方配水塔関係で面白いと思ったのは、荻窪の杉並区立中央図書館近くにある西郊ロッヂングの印象的なドームと配水塔の縁(えにし)を推測した植田実さんの『集合住宅物語』(みすず書房、2004)にあった記述です。
丸の内に勤める会社員達のための高級下宿として西郊ロッヂングを始業した平間美喜松氏は、宮内省に水道関係の技術者として勤めた人でしたが、職を辞したのち再就職した先が野方配水塔を建設した荒玉水道であった由。夫人が切り盛りする西郊ロッヂングの開業は、野方配水塔が完成した昭和5年(1930年)と同年で、この緑青色のドームを戴いた棟は昭和13年(1938年)の増築部。植田実さんは西郊の建物のヒアリングや実測調査を続けてきた建築家の大嶋信道さんの、西郊ロッヂング設計者は「岩倉鉄道学校の建設課を卒業した美喜松さんそのひとにちがいない」という論を紹介しています。「すくなくともかなり具体的なイメージまでは出していただろう。その証拠は美喜松さんが荒玉水道時代に関わったらしい例の野方配水塔と兄弟の仲みたいなドームである」(p.173)。 ![]()
さて、ふたたび子どものころのバス路線に戻ると、「哲学堂」の次が「オリエンタル前」で(現在は「哲学堂下」)、この工場の光景にもなんとなく惹かれていました。東京に転勤になる前は、父の勤務先の工場の敷地内で育ったので、工場というものが自分には身近なものに思えたのと、その地で懐いていた伯母が恋しかったからです。でもこの工場は自分が毎日みていたパイプ剥き出しでもうもうと蒸気をあげていた工場とはずいぶん違う静かな佇まいで、東京の工場ってぜんぜん違うな、と思っていたんでした。…というわけでこの機会に「オリエンタル」って何だったんだ!と調べだしたらこれがすごかった。
![]()
なんじゃこの白亜の塔は!哲学堂近辺には配水塔とオリエンタル写真工業工場と、ふたつの塔が建っていたというわけです。構内には「オリエンタル写真学校」という学校もあったということで、ますます興味がでてきました。
![]() 第2工場正面 ![]() オリエンタル写真工業製品のラベル
オリエンタル写真工業株式会社(現:サイバーグラフィックス株式会社/HP)は、大正8年(1918年)に創業した日本最初の本格的な総合写真感光材料メーカーで、現代に通づる印画紙「オリエント」を発売した大変歴史ある会社だったんでした。創業者・菊地東陽氏は、山形市の写真館の三男として生まれ、小学校を卒業したのち銀座を始めとする日本各地の写真館で修業、明治37年(1904年)に単身渡米して写真館の技師とし修業を積み、やがてニューヨークの五番街・クナーベービル10階のキクチスタジオの館主、ポートレート写真の名手として知られた人物でした。写真師であることに満足せず、独学で印画紙の研究をし、国産印画紙の祖とならんと18年ぶりに帰国、オリエント写真工業の設立のための活動を開始しました。まったくもって破天荒な経歴には驚かされますが、東陽氏に先んずること18年、博物学者・南方熊楠も20歳でいきなり単身渡米してる例もあり、明治の日本人にはこういう「世界」の開け方があったんだなあと社史を読んでいても手に汗握る感じです。
そうして工場設立に向けて東陽氏が再渡米し写真工業の最前線を視察していた間に、役員の人々が苦労して探し出した工場用地が哲学堂下のこの場所だったのでした。「…或る日、植村澄三郎氏が、落合の奥、葛ケ谷を通りかかって、哲学堂の構内で休息され、四辺を眺めると、清水が流れており、茅々たる原野が打続いていて、なかなかの幽玄境だった。哲学堂には、同氏も幾度か遊ばれてこの辺の地理にもよく通じて居られた関係上、何か心に閃くものがあって、早速、水質水量の調査を命じられることになった。すると、水質もよく、水量も豊富だということで、乳剤工業には全く理想的な土地だということがわかったのである」(「オリエンタル写真工業株式会社三十年史」、p.47)。
こうして、第一工場は大正10年(1920年)に運転を開始するわけだけど、社史のこのくだりの傑作脱力系エピソードなのが、「お雇い外人」、ドイツ系アメリカ人のフランク氏の招聘逸話です。渡米した東陽氏が技術師として契約し春洋丸で伴って帰朝、工場に機械を設置するまでの三ヶ月、東京ステーション・ホテルで住まいをともにするという厚遇ぶりだったのですが、実際仕事が始まってみるとこのフランク氏、なんだかぜんぜんダメの人だったんである(笑)。
右の写真をみても、オーバーオール姿でよるべない表情。「日本の技術家に較べると、工業学校を卒業した初歩程度の教養しかなく、実力も学問もある人ではなかった」「東陽氏始め一同、こんな事なら技師なんか不必要だった、と思ったが、年限契約で招聘したので、その間、飼い殺しにしてやらなければならなかった」(以下同上、p.50)ってずいぶんな言われようですが、東陽氏は正月に山形に帰省する際、「フランク君にも、わが故郷を見物させてやろう、一緒に行こう」(p.51)といって連れていってあげたりしてる。東陽氏とフランク氏は、アメリカで意気投合した旅の仲間だったのかも。結局、フランク氏は関東大震災の時まで日本にいたのだけれど、「九月一日丸ノ内海上ビルにあって、肝を潰して街頭に飛び出し、顔色蒼白になって<私は、私は、日本の土地を信用しない!>と絶叫し」(p.86)、早々に帰国しちゃったとのことです。
![]()
そう、オリエンタル写真工業は、工場操業開始のたった2年後の大正12年(1922年)、関東大震災にみまわれちゃったんである。しかしこの大震災こそが、オリエンタル写真工業躍進の発端になったのでした。というのは、工場で印画紙の生産を開始したものの、世間では国産品の品質への信頼がなく、輸入品におされて在庫の山となり、「この多量のストック製品の山を見るときは、一同、溜息をつかざるか得なかった。一体どうしたらいいか、という時に、突如として襲来したのが、関東大震火災であった」(p.76)のでした。
その9月1日、京橋の本社は全焼したものの、落合の工場は煙突の倒壊をのぞいてさしたる被害がありませんでした。しかしただでさえ在庫の山にあえいでいた上に、この地震でもう皆、写真どころではあるまい、といったんは会社解散も覚悟していたところに、空前の震災写真ブームがきたのでありました。 「丁度その日辺りから自転車に乗って、<落合の奥にオリエンタルとか云う写真会社があった筈ですが!>と目白通りから、腰弁を結びつけて、続々と我社工場を訪ねてくる買い手がある。市内の写真材料商が全部消失したので、震災の写真を撮影する写真師が、焼いても焼いても足らないので、市内はもちろん、高崎あたりから自転車でやって来た。外国品は皆無となって、ただ有るものはオリエンタルとかの印画紙ばかりだとの評判で、一時に、どっとばかりに洪水のごとく買手が殺到したのである。」「ちょうど九月八日ごろ、七八人の人達が、社員が工場の草原で昼飯の魚を焼いている頃やって来たのが最初で、<こんな時に印画紙が売れるのかな>と思っていると、刻々人数を増し、九日、十日、十一日、十二日など、幾何学的に累進して、たちまち一辺に売り尽くしてしまった。印画紙を使ってみると、舶来品と遜色がない。こんな優秀品があったのかと、たちまち好評をうけて、思わぬ実物宣伝ともなったのである。一方、赤十字社宣伝班も、震災写真を無制限に焼くという有様で、これも会社に注文が殺到した」。 ![]() 本社第二工場庭園内の「動物園」
「しまいには、キャビネ一枚も残らず売り尽くして、いつもは捨て去った筋入りの印画紙までも、<是非わけて下さい。お願いします>といって、現金をおいて行く。その上、追加注文は山のように引き続いて、殺到する。営業の連中は眼を白黒させて転手古舞いをする。会社の金庫の内には、現金が入りきれないで、机という机の上は札束だ。銀行に預金に行っても、大混乱の最中で、一切取り扱わない。山のような現金の堆積で、<金があって困る>という事になってしまった。震災と同時に、天から降るようにこんなに売れ行きのよかったものは、他に何もない」(p.82)。他の業種が震災景気に入ったのが震災の一年後だったのに対し、オリエンタル写真工業は震災の直後から、一気に事業を躍進させたのでした。
それまでの累損をすべて消却し、翌大正13年3月には、月刊写真雑誌「フォトタイムス」の発行を決定。「フォトタイムス」は巻頭に写真作品を掲載、作品評のほか、撮影や技術に関する論文から写真館の設計にまでいたる論文を掲載し、アマチュアから写真館経営者までをひろく対象とした写真総合誌でした。同年、東陽氏は早くも欧米視察の旅に出発。米・英イーストマン、独バライダ、アグファの工場を視察し帰国、諸設備を大改造して技術革新につとめ、イーストマン社の新製品の輸入にも負けることなく、国産品の定着に成功していったんでした。 そしてまもなく時代は昭和に入り、事業の拡大とともに工場内の設備はどんどん増築されてゆき、昭和3年(1928年)には構内にオリエンタル写真学校を創立、暖房設備の完備した事務所、ホール、雑誌部、研究部、大写場(撮影スタジオ)などの建物のほか、「動物園」まで備えた工場庭園が設備されました。 ![]() 研究部内の写真スタジオ
このオリエンタル写真学校というのもなかなか面白い。卒業生には写真家の植田正治(HP)、林忠彦、フォト・コラージュ・版画の瑛九(杉田後に本名秀夫の名で「フォト・タイムス」にさかんに執筆)、映画監督の木下惠介ら錚々たる名が並んでいます。入学資格が1.写真館主、2.写真館主あるいはオリエンタル写真学校の認定する写真技術者、3.写真館主の証明を有する写真技術者、4.写真学校卒業生で尋常小学校の義務教育をおえた人ということなので、基本的には写真館主の子弟を対象とし、オリエンタル製品を使った写真の技術指導を行う学校、「一方宣伝用として理想的なものであると同時に、他方においては写真界の向上発展に奉仕せんがため(菊地東陽の開校の辞)」(p.322)の学校なのでありました。
とはいえ、地方から入学する生徒のためには寄宿舎・食堂を設けて生活費の軽減をはかり、当時としてはめずらしい男女共学にするなど、それまで技術や芸術を学びにくかった人達に門戸をひらいた学校であり、映画監督・木下惠介が高卒ながら、大学卒業を採用条件としていた松竹蒲田映画撮影所の監督助手になれたのも、オリエンタル写真学校の卒業資格をもって撮影助手になれたからだそうです。(ちなみに木下監督の本名は正吉。オリエンタル写真学校時代に通っていた落合の飲み屋、「けいすけ」にちなんで惠介と名乗るようになった由)。 竹久夢二のモデルお葉が所属していたので知られる元祖モデルクラブ「宮崎モデル紹介所」のモデルを呼んできたり(またあるときには薬師芸者をモデルとして招聘…)、となかなか楽しそうではありますが(撮影の要領を心得てしまい、それじゃピントあってない、と指導するモデルもいたとか)、学校の「修業期間が三ヶ月」というのがなかなかうまいと思う(笑)。地方の写真館主の最新技術研修や、写真館の若き子弟の東京留学の受け皿となりつつ、根がはえる前に返しちゃえって感じで、東陽氏らしい現実主義。指導官として教壇に立って鍛えられるため、オリエンタルの営業マンは話がうまいと評判だったそうだし、学業を終えて故郷に帰った生徒達は、写真館の看板に「オリエンタル卒業」とかかげたり、「オリエンタル写真館」という名にしたりと、学校を誇りにしていたということだから、まさに「宣伝であると同時に奉仕である」という開校の趣旨は生かされていたということでしょう。 …おぼろげな記憶から辿り始めた落合の少し昔の歴史のヒトコマ、意外なところから中央線をとびこえて、中野坂上へとリンクされていくのでした。以下次号!
──参考資料
・植田実『集合住宅物語』(みすず書房、2004) ・goo地図/古地図 ・庄司英助編『オリエンタル写真工業株式会社三十年史』、オリエンタル写真工業株式会社、1950) ・「フォトタイムス」創刊号(フォトタイムス社、1924) ・日本写真興業通信『百号ごと十回の記録』(日本写真興業通信社、1967) ・『東京工芸大学六十年史』(東京工芸大学、1983) ・鎌田弥寿治『日本写真教育史』(東京写真大学短期大学部出版部、1975) ・長部日出雄『天才監督 木下惠介』(新潮社、2005) *旧仮名遣いはあらため、おくりがな等変更しています。 東京工芸大学図書館のみなさま、ありがとうございました! (2009.4)
|