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昭和を代表するコメディアン・三波伸介さんの長男である三波伸一さん。
お父様亡きあとは、同じ喜劇人として、舞台を中心に多方面で活躍されてきました。
そして今年12月、満を持して二代目三波伸介を襲名することに。
これまでの活動やお父様のことなど、様々なエピソードを交えながら、その心境を語っていただきました。
(2009年8月/中野区勤労福祉会館にてインタビュー)
三波 伸一(みなみ しんいち)
1964年6月14日東京生まれ。中野区在住。
日本大学芸術学部美術学科卒。
2歳で日劇の初舞台を踏む。
18歳の頃から舞台・テレビドラマ・映画・音楽など多方面で活躍し、現在は浅草・東洋館、中野・橋場公会堂などをはじめとした喜劇の舞台を中心に活動。軽演劇・喜劇の普及につとめる。
「三波伸介一座」、喜劇専門劇団「萬天舘」座長。
2009年12月8日(父・伸介の祥月命日)をもって「二代目三波伸介」を襲名予定。
萬天舘
三波伸介記念館
たまたま親と同じものが
好きだっただけ。
「親が喜劇役者だったから」という以前に、私は喜劇が本当に大好きなんですよ。
たまたま親と同じものが好きだっただけ。生まれる前からあまりにも喜劇が大好きだったので、神様がこの親のもとに産み落としてくれたんだって思っているくらいです(笑)。
だからこそ、親父と同じ道を歩みたいっていう気持ちは昔からずっとあったんです。
でも、親が現役バリバリの全盛でいるときに「コメディアンになりたい!」なんて言い出せないですよ。その世界に入る以上はトップになりたいし、狙うトップが親だと思うとね。
それでも喜劇の世界に関わっていたいという想いはあったので、最初は台本作家を目指したんです。
「台本作家になりたい」と親父に言ったら、「台本作家をやるんだったら、演じる人間の気持ちもわからなくちゃ駄目だ」と言われて、稽古をするようになったんですけど、そうこうするうちに親父は亡くなってしまったので、後を継がざるをえない状況になってしまったという次第です。
でも、自分が一番好きな喜劇の世界ですから迷いはなかったですよ。あんなすごい職業はないと思っていましたからね。
でもみんな、そうでしょう?
誰でも親の職業はすごいと思うべきだと思うし、誰にとっても親ってすごい存在。
たまたま私の父親はメディアにのっかっちゃって、有名人だったから「お父さんは偉大な人」とか「後を継ぐのは大変でしょう」とか言われるんですけど、誰の親もみんな偉大ですよ。
「親との約束を果たすバカがいてもいいかな」と思って
二代目「三波伸介」襲名を決意。
生前、親父が山形の天童に行った時にね、巨大な将棋の駒を作って、自宅に送ってきたんですけど、そこに「初代 喜劇我命 三波伸介」って書いてあったんですよ。
親父に「初代があるってことは二代目があるんだぞ、わかっているな」って言われて、その将棋の駒を磨くのが、私の日課になったんです。
親父は先見の明があって、今になって日記を読んだり、話していた言葉を思い出してみると、とても驚かされることがあります。予言者かと思うくらい(笑)。
バブルやエネルギー危機、情報化社会もちゃんと予見していて、10年先をちゃんと見ている人でした。
でも「それを一切無視することもいいことなんだ」なんて言って、親父はテレビというどんなに華やかな世界にいても、「喜劇王」という言葉が好きで、ある種その大時代的な言葉にずっとこだわっていたんです。
私もね「親父の名前を使えばもっとテレビとか出られるんじゃないの?」なんて言われたりもしたけど、やっぱり地道にお客さんの前で生で演じるのが好きなんですよね。
その辺りのこだわりは、親父と似ているのかもしれません。
二代目を継がずに自分の名前で頑張っていきたいという気持ちもあったんですけど、私がお世話になっている合気道の師匠や、親父と馴染みのあった芸人の方からの助言もあり、今年襲名することを決意しました。
それは親父との約束でもあったし、日記にも書置きにもいっぱい書いてあって、とにかく親父は「三波伸介」の名前を残したかったんですよ。
親子関係が希薄な世の中、親子の約束を果たす。そういうバカがひとりくらいいてもいいんじゃないかと思ってね。
中野区は小さい頃から馴染みの場所だから。
「笑う」ということを大事にする街でいて欲しい。
私の出身は新宿で、親父も神田生まれなんだけど、祖父が沼袋の百観音の近くに住んでいましたから、小さい頃から中野は馴染みの場所だったんです。親戚も中野に住んでいますしね。
そのせいか、小さい頃、遊びに連れて行ってもらうっていうと、中野ブロードウェイや日本閣のプールとかだったんですよ。
親父と「 てんぷくトリオ」をやっていた 伊東四朗さんは南台の方に住んでいたし、 戸塚睦夫さんは新宿区と中野区の境の小滝橋、マネージャーさんも中野区だったし、「てんぷくトリオ」がはじめて事務所を開いたのも中野区。本当に中野区には昔から縁があるんですよ。
だから新宿から引っ越すとなったときも、当然のように中野区に引っ越していましたね。中野はとても便利な街ですし。
昔は芸人を目指す人は「浅草に行けばなんとかなる」という感じだったんですけど、今は中野になってきているんですよね。
中野区は芸人人口がとても多くて、若手芸人の四割くらいが住んでいるから、地方から上京して来る芸人志望の子は「中野に来ればなんとかなる」と思っている。でも実際はなんとかならないのが現実ですよね。
昔は浅草だったらロック座とかフランス座とかあったけど、今の中野区には事実上受け皿がないんです。桃園公会堂や、私が時々お世話になっている橋場公会堂は老朽化が進んでいるし、なかの芸能小劇場だけでは中野の芸人人口を受け入れるのは無理でしょう。
人が活性化するためには「笑い」が一番。ここは区にも頑張ってもらって「中野に来れば芸人の道が開けるんだ」っていう状態になってくれればいいなって思っています。
どんなに心を強く保っていても笑いがないと産業は振興していかない。絶対笑いは大きな起爆剤になるんです。過去オイルショックの時もお笑い番組がやたらと増えたりしていましたからね。
「笑い」は目に見えないものだから一瞬無駄のようにも思えるんだけど、「正気」に戻るためには「笑気」が必要。若者たちのためにも、ぜひとも「笑う」ということを大事にする街であって欲しいと思います。
始終冗談を交えながら、インタビューに軽快に答えてくださった三波伸一さん。
芸人としての厳しさを秘めながら、人を楽しませようという温かい心を感じさせてくれました。「喜劇を続けることは、私の生きる証」と語る、三波伸一さんが二代目三波伸介を襲名されるのは、父・三波伸介さんの祥月命日の2009年12月8日。
今後のご活躍、楽しみにしています!
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